May 17, 2011

東日本大震災

3月11日14時46分、私はいつものように赤ん坊を抱きながらPCで遊んでいました。
突然の大きな揺れ。
ガッシャン、ガッシャンという激しい音と共に、CDや本は棚から飛び出し、テレビはひっくり返り、電子レンジなどの電化製品が落下しました。今までに経験したことのない激しさと長さに、娘を抱きながら、死ぬかもしれない、早く止まって、と心の中で叫びました。娘はよく分からないようで、泣きもせず、きょとんとしていました。

当然、電気もガスも水道も止まり、電話も通じなくなりました。外を見れば、雪。マンションの住民が近くの大家さん宅に集合しているというので、とりあえず娘をおんぶし、最低限必要な物を荷造りしました。
階段を下りる途中、会ったことのない階下の女性に声をかけられました。
「水がそこまで来ているから、ここにいる方が安全みたいよ。」
たしかに、どんどん人が避難してきます。階段の窓から見ていると、あっという間に水位は上がり、膝丈以上に。一人では心細いので、声をかけてくださった女性(以降、ママと表記)の部屋へ赤ん坊と避難しました。大家さん達もマンションの空き部屋に避難してきました。
時間が経つにつれて雪はやんだものの、水位はどんどん上昇。あちらこちらから、水に漬かった無人の車の悲鳴のようなクラクションの音が聞こえます。
とにかく様子を知りたいと大家さん達の居る部屋へ行きますが、誰もラジオを持っておらず、状況が何も分かりません。我が家にもラジオはあったはずですが、あまりの散乱に見つけることができず、懐中電灯すら見つけられず。かろうじて、ロウソクは発見したので、ママのお宅でロウソクを灯し、家にあったチョコレート、煎餅、クラッカーでお腹を満たしました。
暗がりの中、それほど遠くない場所で、火事になっているのが見えました。この時はなぜ火が消えないのか不思議でした。後から思えば、道路は水没し、消防車が走れる状況ではなかったのです。
夜通しヘリの音が響いていたので、津波で人が流されたのだろうと思いました。水没した車のライトとクラクションで、妙に明るく騒がしく感じました。夜中にまだ水が引かないのかと外を見ると、怖ろしいほどに美しい星空がありました。

翌朝、水位はいくらか下がったものの、家の前の国道の水は引かず、車の通れない状態。しかし、救助のボートも来ません。大家さんの部屋ではカセットコンロでお湯を沸かしていたので、娘のミルク用に分けてもらいました。
トイレと片付けに、何度も自分の部屋と行ったり来たり。、反対側の棚が倒れて開かなくなっていた冷蔵庫から、わずかな食料を取り出します。お客さんが来る予定だったので、パウンドケーキを2本焼いていたのでした。この日の食料はパウンドケーキと富貴豆、夕飯には大家さんのところからおにぎりを4ついただきました。ママが、「赤ん坊の分も食べなさい」と、自分の分を分けてくれました。
これまで同じマンションの住人の方々との交流はほとんどなかったのですが、今回の震災ではお互いに何度も声を掛け合い、わずかな物の中から必要な物を分け合い、とても助けられました。本当に困った時には、人って温かいのだと感じました。
暗くなり、することもなく、娘の屈託の無い笑顔に癒されながら、ママと身の上話などをしていると、ドンドンドンッとすごい力で玄関を叩く音。ママの息子さんとお友だちが現れました。頭からつま先まで、水に濡れ、泥だらけでした。日中、ママは避難してきた人のために息子さんの服を気前良くあげたので着替えが無く、我が家の夫のジャージを代わりにあげました。
息子さん達の勤務先は、夫の勤務先と同じ町。息子さん達は、朝職場を出て、歩いて戻ってきたとのことでした。二人が歩きながら体験してきた話は、とても書けないほど凄まじいものでした。一本のロウソクを囲んで話を聴いているうちに、戦争中もこんな状況だったのかもしれないと思いました。とにかく、海沿いの町は無くなったという話でした。津波がかなり高いところまで上がったという話でした。たぶん夫はこの世にいないだろうと思いました。

汚い話ですが、トイレの水は流せません。ママのお宅でトイレを借りるのは申し訳ないので、トイレは自分の家に戻って済ませていました。夜は真っ暗な中で部屋に戻るのが怖く、10時間以上我慢していました。あまり飲み食いしていないので、大丈夫だったのですが。
三日目の朝も、明るくなってきて、まずトイレに出かけます。家の鍵を閉めて、どれ入ろうかと思っているところで、我が家にもドンドンドンッと玄関を叩く音。そして、夫が帰ってきました。死んだと思っていたので、ただただ嬉しい驚きでしたが、夫はまず「○○ちゃんは?」と娘を探していました。
ママの息子さんとお友だちは、まだ安否の分からない家族の元へ、再び徒歩で出発しました。夫や息子さん達の話では、家の前の道路はかろうじて車が走れるものの、あちらこちらに深い水溜りがあり、流された車があり、まだまだ車が自由に走れる状態では無いとのこと。大家さんのところで聞いた話だと、避難所へも水溜りがあって行けないようでした。防災無線では、オムツや水が不足しているので避難所に持って来て欲しい、との放送。避難所にもまだ支援物資は届いていないようです。津波の被害が少なかった店では物を販売しているようでしたが、3時間待ち6時間待ちという話でした。
この日の夜、震災後初めて家族三人で自宅で過ごしました。余震が続いているのにロウソクを使っていたことを、危ないと叱られました。月明かりだったのでしょうか、全戸停電のはずなのに、真っ暗ではなかったような気がします。純粋に、家族三人命が助かって良かったと思うことができました。埃っぽかったけれど、みんな薄汚れていたけれど、震災後、今日までの中で、この日が一番幸せだったように思います。

翌朝、親戚が車で迎えに来てくれて、私たち家族は救出されました。

この後も自宅に帰れない避難生活や、水道の復旧していない自宅での生活、そして、いつ終るか分からない放射能への不安な日々が続きます。そのうちまた、アップするかもしれません。

長くなりましたが、覚書程度に記してみました。ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

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March 03, 2011

初節句

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今日は、3月3日の雛祭りです。が、我が家では、先日の日曜日に娘の初節句のお祝いをしました。
雛人形は義母さんの手作り。何を買うか考え始めたのが遅かったこともあり、本式の人形は来年ゆっくり吟味して購入することにしました。
お内裏様が猫背なのは、夫似?金屏風の端は娘が握りつぶしました(爆)

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離乳食も雛祭り仕様です。スズキのお粥、マッシュポテトの菱餅、アサリ汁を作りました。本当は蛤のお吸い物にしたかったのですが、近くのスーパーに売られていた蛤は中国産だったので…。

今は、ギャーギャーと奇声をあげて、小さな怪獣ですが、来年には女の子らしくなっているのでしょうか。

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February 25, 2011

ばっけ味噌

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ふきのとうをもらいました。天ぷらにするには小さかったので、ばっけ味噌を作ってみました。春の香りがして、白いご飯がいくらでも食べられそうな味です。
レシピは「白ごはん.ocm」を参考にしました。子どもにきちんとした和食を食べさせたいと思っている新米母としては、とても参考になるサイトです。
本も出ているようなので、買ってみようかしらと思っています。

【送料無料】白ごはん.com

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数ヶ月前には、仰向けで手足をバタバタさせることしかできなかった子が、今ではこんなかっこうで寝るようになりました。どんどん進化しています。

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January 24, 2011

牛乳パックのベビーフェンス

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最近、赤ん坊が寝返りでコロコロと転がるようになりました。ちょっと目を離すとすぐ、子ども部屋の和室からリビングへ転がってきます。我が家にはベビーベットもベビーサークルもありませんが、この日のために、夫が昨年末から作っていたのが、
「牛乳パックのベビーフェンス!」(ドラえもんの声で(笑))

家族、友人、同僚の協力を得て牛乳パックは集めました。新聞を詰めて2個の牛乳パックを重ねて強度を出しています。ここまではいいのですが、接続が両面テープというところが弱点。
さっそく赤ん坊を牛乳パックのフェンスで部屋に閉じ込めて料理をしていたところ、ミシッ!歪んでいる!食べている!!
今のところ壊れていませんし、音がするので部屋から出る前に気づくことができ役に立っているものの、夫の力作がいつまでもつか、ドキドキです。

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December 27, 2010

Happy half birthday♪

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娘、六ヶ月になりました。

新生児の時は、本物の天使かと思うほど可愛らしかったのですが、最近はしっかりした人間らしい面構えになってきました。もちろん可愛いのですが、それよりも行動の一つ一つが面白くて笑えます。さらに、大人が笑っていると、本人も「えへへ、あはは」と笑うので、とても愉快です。

大きくなったと感じるのは、まずは泣き声。新生児の時は「ふぎゃぁ、ふぎゃぁ」と弱々しく泣いていましたが、今は「ギャーッ、ギャーッ」と小さな怪獣です。機嫌の悪い時の泣き声は、正直言って、うるさい!
それから、服。乳児用の前合わせの服の中に手も足も隠れていたのに、今ははみ出して、半袖半ズボン状態になっていることもあります。
動けなくて退屈だろうと思っていましたが、最近はだいぶ寝返りもするようになりました。寝返りして、反り返って得意顔。ただし、寝返り返りもはいはいもできないので、しばらくすると戻れないし、進めないしで、怒りだします。

思えばあっという間の一年。昨年の今頃はお腹の中にこの人を抱えて仕事をしていたなんて、不思議です。

赤ん坊も、家族も、支えてくれた、助けてくれた皆様に、ありがとう!
来年も、よい一年になりますように!!


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December 26, 2010

蒸篭にはまっています

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ずっと欲しいと思っていた蒸篭。
出産を機に、購入してみました。

使ってみると、これがなかなかすごい。
お肉やお野菜が、
やわらかく、おいしく、ほっこりと調理できるのです。

特に、お昼ご飯に便利。
家にある野菜を適当に蒸して、
私はマヨネーズやポン酢をつけるだけ。
娘には野菜の一部を取って、
つぶして、お湯を加えて離乳食。

夕飯も、
蒸篭ごと出せば、なんか豪華に見えます。
画像は、蒸し塩豚と蒸し野菜です。

ちなみに購入したのはこちらの商品。
国産で価格が手頃で、
初心者用に備品が付いてくる点で決めました。


これで安心!せいろ生活スターターセット天山ブランド竹製21cm6点セット【・アルミ鍋・本体x2・蓋・トング・シュロタワシ・本・調理紙x10p】 【楽ギフ_包装】【楽ギフ_メッセ入力】

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November 28, 2010

『おうちで楽しむにほんの行事』

私が子どもだった頃に比べて、季節を感じることが少なくなったように思うこの頃。でも、子どもには日本人らしい季節感を体験してほしい。そこで『おうちで楽しむにほんの行事』(広田千悦子著 技術評論社)を買ってみました。きれいな四季折々の写真とほのぼのとしたイラストと共に、一月から十二月までの季節の楽しみ方が紹介されています。十二月の小見出しを一つ紹介すると「冬を乗りきるカボチャとユズ湯」といった具合。この本の影響もあり、私はずっとほしかった蒸篭を買ってしまいました。


おうちで楽しむにほんの行事

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October 14, 2010

ピーナッツバター

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生落花生を購入したので、ピーナッツバターを作ってみました。

殻を剥いた後にオーブンで焼き、すりつぶして砂糖、バターと混ぜ合わせます。今回は横着して、薄皮を剥かず、すりつぶす時にフードプロセッサーを使いました。味はわるくありませんが、舌触りが滑らかではなく、風味も足りません。殻を剥く段階で薄皮も剥き、フードプロセッサーではなく、すりこぎでつぶした方がおいしくできると思います。

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September 22, 2010

出産

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娘が生まれて三ヶ月が経ちました。
子宝とはよく言ったもので、赤ん坊は小さくて、可愛らしくて、命をかけて守りたい宝です。

娘はゆる~い性格なのか、二週間近く延長してお腹の中に滞在し、出てくるのもほぼ一日がかりでした。出産はとんでもなく大変でしたが、誕生した瞬間は、ただただ「感謝」という気持ちでいっぱいでした。
お腹の中にいるときから小さい子で、生まれてからも、あまり飲まなかったり、飲んでも吐いたり、最初から受け付けなかったりで、なかなか大きくなりません。
私自身体調が思わしくなく、娘のこと、自分のこと、ちょっとしたことで泣けてきます。娘が笑うとあまりにも可愛すぎて涙が出てくるのは、まさに産後鬱でしょう。
それでも、三ヶ月経つと娘は娘なりに大きくなり、私も少し落ち着いてきた感じです。

今年の夏はひどく暑く、私の体調が思わしくないこともあり、三ヶ月間ほぼ引きこもりの生活でした。今も、授乳、洗濯、料理、食事、掃除、寝るの繰り返し。少し退屈ですが、他のことをやる気力はなく、一日があっという間に過ぎていきます。働いているときもあっという間でしたが、家にいてもあっという間なのですから不思議です。

三ヶ月経った今、ぼちぼち赤ん坊関連のブログを書くことから、社会復帰してみようかと思います。

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January 25, 2010

『沈まぬ太陽』山崎豊子著

興味としては、描かれている内容がどの程度事実なのか気になりますが、この小説の魅力は事実か事実と異なるのかという点にあるのではありません。航空会社を中心として、政、官、財を巻き込んだ闘争、スキャンダラスな人間ドラマを、事実に基づきながらも、小説として再構築し詳細に描き上げているところに大きな魅力があるのです。単行本で5冊のボリュームですが、飽きずに一気に読ませる著者山崎豊子氏の迫力ある筆致に圧倒されました。

1961年、物語は主人公恩地元が、国民航空労働組合の委員長に就任したことに始まります。空の安全を守るために、組合員の労働条件の改善を訴え会社側と闘った恩地は、委員長を2期務めた後、パキスタンのカラチ支店に事実上左遷されます。その後、テヘラン、ナイロビと盥回しにされる恩地。その間にも会社は利益優先の経営に走り、結果として連続事故が起こります。衆議院交通安全対策特別委員会で恩地の不当人事が取り上げられ、10年ぶりに帰国した恩地でしたが、与えられたのは名ばかりの”閑離職”だったのでした。
1985年8月12日、国民航空123便が御巣鷹山に墜落。航空史上最大520名の犠牲者を出します。恩地は遺族係として、現場で、またその後の補償交渉で、遺族のお世話にあたるのでした。
地名、便名、そしてご遺族の方が実名で登場し、「御巣鷹山篇」は、フィクションとノン・フィクションのぎりぎりの境界線を辿るように進行します。日航機墜落事故当時、私はまだ子どもでしたが、TV報道で見た場面の断片や当時感じた衝撃を思い出しました。
事故後、国民航空再建のために、経営陣が官邸主導で一新されます。新会長に就任した国見は、『絶対安全』を掲げて組織改革に邁進。組合問題を解決するために、恩地を会長室のメンバーに抜擢します。国見や恩地、そして心ある社員により、会社の上層部の腐敗、政、財、官の癒着が徐々に明るみに出てくるものの、腐敗の根は深く、ついに更迭される国見会長。そして、小説はクライマックスを迎えます。

あとがきの日付は、1999年8月10日。10年を経て、本書で予言されたかのように、日本航空は経営破綻しました。小説の内容が事実か事実ではないかが問題ではありません。多くの社員の方が真摯に仕事に取り組んでおられるだろうことも、想像できます。社員の方がメッセージを配ったところで問題解決にはなりません。私たち利用者が願っているのは、本当の空の安全であり、これまでに利益を貪った、今でも暴利を貪っているかもしれない人々の反省と償いなのですから。



沈まぬ太陽(1(アフリカ篇・上))

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