東日本大震災
3月11日14時46分、私はいつものように赤ん坊を抱きながらPCで遊んでいました。
突然の大きな揺れ。
ガッシャン、ガッシャンという激しい音と共に、CDや本は棚から飛び出し、テレビはひっくり返り、電子レンジなどの電化製品が落下しました。今までに経験したことのない激しさと長さに、娘を抱きながら、死ぬかもしれない、早く止まって、と心の中で叫びました。娘はよく分からないようで、泣きもせず、きょとんとしていました。
当然、電気もガスも水道も止まり、電話も通じなくなりました。外を見れば、雪。マンションの住民が近くの大家さん宅に集合しているというので、とりあえず娘をおんぶし、最低限必要な物を荷造りしました。
階段を下りる途中、会ったことのない階下の女性に声をかけられました。
「水がそこまで来ているから、ここにいる方が安全みたいよ。」
たしかに、どんどん人が避難してきます。階段の窓から見ていると、あっという間に水位は上がり、膝丈以上に。一人では心細いので、声をかけてくださった女性(以降、ママと表記)の部屋へ赤ん坊と避難しました。大家さん達もマンションの空き部屋に避難してきました。
時間が経つにつれて雪はやんだものの、水位はどんどん上昇。あちらこちらから、水に漬かった無人の車の悲鳴のようなクラクションの音が聞こえます。
とにかく様子を知りたいと大家さん達の居る部屋へ行きますが、誰もラジオを持っておらず、状況が何も分かりません。我が家にもラジオはあったはずですが、あまりの散乱に見つけることができず、懐中電灯すら見つけられず。かろうじて、ロウソクは発見したので、ママのお宅でロウソクを灯し、家にあったチョコレート、煎餅、クラッカーでお腹を満たしました。
暗がりの中、それほど遠くない場所で、火事になっているのが見えました。この時はなぜ火が消えないのか不思議でした。後から思えば、道路は水没し、消防車が走れる状況ではなかったのです。
夜通しヘリの音が響いていたので、津波で人が流されたのだろうと思いました。水没した車のライトとクラクションで、妙に明るく騒がしく感じました。夜中にまだ水が引かないのかと外を見ると、怖ろしいほどに美しい星空がありました。
翌朝、水位はいくらか下がったものの、家の前の国道の水は引かず、車の通れない状態。しかし、救助のボートも来ません。大家さんの部屋ではカセットコンロでお湯を沸かしていたので、娘のミルク用に分けてもらいました。
トイレと片付けに、何度も自分の部屋と行ったり来たり。、反対側の棚が倒れて開かなくなっていた冷蔵庫から、わずかな食料を取り出します。お客さんが来る予定だったので、パウンドケーキを2本焼いていたのでした。この日の食料はパウンドケーキと富貴豆、夕飯には大家さんのところからおにぎりを4ついただきました。ママが、「赤ん坊の分も食べなさい」と、自分の分を分けてくれました。
これまで同じマンションの住人の方々との交流はほとんどなかったのですが、今回の震災ではお互いに何度も声を掛け合い、わずかな物の中から必要な物を分け合い、とても助けられました。本当に困った時には、人って温かいのだと感じました。
暗くなり、することもなく、娘の屈託の無い笑顔に癒されながら、ママと身の上話などをしていると、ドンドンドンッとすごい力で玄関を叩く音。ママの息子さんとお友だちが現れました。頭からつま先まで、水に濡れ、泥だらけでした。日中、ママは避難してきた人のために息子さんの服を気前良くあげたので着替えが無く、我が家の夫のジャージを代わりにあげました。
息子さん達の勤務先は、夫の勤務先と同じ町。息子さん達は、朝職場を出て、歩いて戻ってきたとのことでした。二人が歩きながら体験してきた話は、とても書けないほど凄まじいものでした。一本のロウソクを囲んで話を聴いているうちに、戦争中もこんな状況だったのかもしれないと思いました。とにかく、海沿いの町は無くなったという話でした。津波がかなり高いところまで上がったという話でした。たぶん夫はこの世にいないだろうと思いました。
汚い話ですが、トイレの水は流せません。ママのお宅でトイレを借りるのは申し訳ないので、トイレは自分の家に戻って済ませていました。夜は真っ暗な中で部屋に戻るのが怖く、10時間以上我慢していました。あまり飲み食いしていないので、大丈夫だったのですが。
三日目の朝も、明るくなってきて、まずトイレに出かけます。家の鍵を閉めて、どれ入ろうかと思っているところで、我が家にもドンドンドンッと玄関を叩く音。そして、夫が帰ってきました。死んだと思っていたので、ただただ嬉しい驚きでしたが、夫はまず「○○ちゃんは?」と娘を探していました。
ママの息子さんとお友だちは、まだ安否の分からない家族の元へ、再び徒歩で出発しました。夫や息子さん達の話では、家の前の道路はかろうじて車が走れるものの、あちらこちらに深い水溜りがあり、流された車があり、まだまだ車が自由に走れる状態では無いとのこと。大家さんのところで聞いた話だと、避難所へも水溜りがあって行けないようでした。防災無線では、オムツや水が不足しているので避難所に持って来て欲しい、との放送。避難所にもまだ支援物資は届いていないようです。津波の被害が少なかった店では物を販売しているようでしたが、3時間待ち6時間待ちという話でした。
この日の夜、震災後初めて家族三人で自宅で過ごしました。余震が続いているのにロウソクを使っていたことを、危ないと叱られました。月明かりだったのでしょうか、全戸停電のはずなのに、真っ暗ではなかったような気がします。純粋に、家族三人命が助かって良かったと思うことができました。埃っぽかったけれど、みんな薄汚れていたけれど、震災後、今日までの中で、この日が一番幸せだったように思います。
翌朝、親戚が車で迎えに来てくれて、私たち家族は救出されました。
この後も自宅に帰れない避難生活や、水道の復旧していない自宅での生活、そして、いつ終るか分からない放射能への不安な日々が続きます。そのうちまた、アップするかもしれません。
長くなりましたが、覚書程度に記してみました。ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
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